2005年06月11日
太陽へのリスペクト
いま、仕事が死ぬほど楽しい。とはいいつつ、
死ぬほど働いている、とは言えてないし、
働いて死ぬ気もないけど、
自分の限界を知ってみたいという気もするが、
ムリしているようにはみせたくないし、
どんなことにも興味をもってとりくんでいきたいけど、
「達観して物事を見下す」だとか「きめつける」なんて
そんなことはしたくないんだ。
投稿者 knsket : 13:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年06月07日
俺も好き勝手書くことにした
ここは解放区なんだなあと思うと、自由に物事が書けるような気がするが、別にそれは誰にむけて書いているというわけでもなく、ただ自分に書いているような、そんな空間なのだと思うのだよ。
投稿者 knsket : 01:07 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年06月05日
修論の終章
ということで、折角考えた最終章ですが、
教授に「掲載しないほうがいい」と言われてしまったので、
代わりにここに掲載いたします。
まあ、研究室のしがらみ、とでも言いましょうか。
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終わりに
もはや映像表現は特定個人のみに与えられた特別な技術ではない。PCの普及や映像機材の低価格化によって、誰もが映像を制作できる環境が実現している。Macromedia FLASHの登場・進化によって、インターネット上で展開されるアニメーションはさらに奥行きを増し、大量流通とはいかずとも閲覧者を楽しませている。それだけ、わが国の映像表現は多様性を増してきている。
そして、映像表現の手段の多様化は、同時に映像視聴の嗜好の多様化をも引き起こしている。それは、まさに映像が絵画や文芸といった表現と同等の壇上に上ったことを意味する。誰もが足並みをそろえて一つの映像作家・監督の作品を同等に評価するわけではなく、各々の価値尺度をもって、「自分の好きな映像」を選択できる時代となっているのだ。
ここで一つ興味深い報告を紹介したい。株式会社博報堂の生活総合研究所が出版した『生活予報2003 非同期』のなかで、「情報コンテンツの生産と消費の同期がなくなってくるという例」として、このコンテンツ消費の多様性について述べているものである。
情報の生産と消費の同期がなくなってくるという例
古典というものは、情報と生産と消費が非同期です。とはいっても、古典の文学を読む人は減りました。ところが、かわってマンガ、ビデオ、ヒット曲などのサブカルチャーの蓄積が進んでいます。コンビにでは、過去の名作マンガを再編集して安い価格で新発売。昔読んだことのある20代や30代の人々が気の向いたときに、スポーツ根性物のスポコン古典マンガを購入したりするようです。かつて、いっせいに発売日に買ってその日のうちに読んでいた新刊マンガのファン行動とは違った非同期パターンといえます。DVDボックスといわれる箱にはいった愛蔵版ソフトの登場も、サブカルチャーの非同期化の例。過去のテレビ番組を、毎晩、楽しそうに見ている人が増えているのです。ヒットチャートをみても、新人歌手が昔の歌を歌い直しているカバーアルバムが目立ちます。
コンテンツはもはや、一度に大衆を動かす驚異的なものではなくなりつつあるのかもしれない。これらの資料から、生活者の近年のコンテンツ消費行動を鑑みると、そう禁じえない。
著者は、国政・自治体・研究機関が指し示している「コンテンツ産業」が、とても特殊的な一部のコンテンツメイカーにのみ偏向してはいないかと時折不安に駆られることがあった。「大衆の心をつかんで離さない固有の強大なコンテンツ」の存在は幻想に過ぎないのではないか。一瞬そんな心配が脳裏を横切ったこともある。
ある日、巨大なインターネットの片隅の小さなウェブサイトで、著者は心から楽しめるアニメーションコンテンツを見つけたことがある。それは一般市場に流通する映像コンテンツよりも遥かに面白く、品質も上であった。こうした作品は、インターネット上を探せば探すだけ、見つけ出すことができたのだ。本研究でも取り上げた新海誠の作品は、こうした作品の中で運良くスポットライトが当たった作品なのかもしれない。それだけ、我々を取り巻くコンテンツの海は壮大で創造性に満ちていると歓喜した。そして同時に、それらを「コンテンツ研究」として一様に取り扱うことなど、とてもできないのではないかと愕然とした思いを覚えた。
しかし、本学での3年間の研究活動を通じて、それらの複雑な思いに、一つの区切りをつけることができたと感じる。メディアコンテンツ研究として目指す先は、「全ての人々に開かれた自由な表現メディアの開拓」そして「多様な映像表現の肯定」にあると考えた。それらは、2003年と2004年に小学生対して行ったアニメーションの制作体験授業を通じて特に強く感じた。ビデオカメラ一つで自在に思い思いのコマドリアニメーションを撮影・制作し、自らが作り上げた作品の出来に歓喜する小学校3年生の児童たちの目の輝きは、決して忘れることはできない。
こうした、個々人の自由の映像表現活動を支援し、素晴らしい映像コンテンツを生み出す環境の礎を作りたい。そのために、著者は「創造的な映像制作を支援する環境の構築」を研究テーマとして選んだ。
著者は今後一度社会人となり、様々な経験を積もうとしている。学生という身分では決して見ることのできなかった、コンテンツ産業に対する新しい知見を得る事ができるだろうと期待している。
産業サイドからのコンテンツのあり方について、一度経験をつみ、そこで得た新しい知見をもとに、再度このコンテンツ研究の場に立ちたい。いつかまた、本学の門をくぐれることを願って、本研究を締め括りたい。
投稿者 knsket : 22:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
カイジ的なる考え方
「金は命より重い!」
「大人は質問に答えたりしない。」
「死んだらゴミ 勝たなきゃゴミ」
カイジは賭博マンガでありながら、一種の人生哲学の一体系を表現している数少ないマンガであると思う。
ちょっと強烈なノイズがはいる過激な表現もあるけれど、
基本的に人間個人の「孤独」と「性悪説」からくる、コンプレックス全開の
その独特の言葉が生み出されている背景を鑑みると、
福本氏の人間描写は的を射ているなあ、と思ってしまう。
(徹底した超個人主義のスタンスで社会を捉えるならば・・・だけど)
以下、カイジ名言集。強烈だけどあつい。
オレはチャンスを自ら閉じているんだ!
オレの限界はここ、これ止まりと
他の誰でもない、オレが、
オレ自身が見限っているんだ……!
自分を……!
その可能性を……………!
--
大詰めで弱い人間は信用できぬ……!
つまりそれは管理はできても勝負のできぬ男……
平常時の仕事は無難にこなしても
緊急時にはクソの役にも立たぬということ……!
--
苦しく難しい決断になると、
自分で決めない…………
そうやって流され流され生きてきた…
その弱さがこの土壇場で出た……
この結果は言うなら必然………!
これまでのオレの人生のツケ…!
--
運・勘・人に頼る勝負はやめだ……
そういうノータリンな振る舞いはもうやめ…
自分の頭で考え………
勝つべくして勝つ………………!
--
「もう少し待って…………」
おまえらは生まれてから何度
そのセリフを吐いた…………?
世間はおまえらの
母親ではないっ……!
おまえらクズの決心を
いつまでも待ったりはせん………!
--
おまえらは負けてばかりいるから
勝つことの本当の意味がわかっていない……!
だから今、クズとしてここにいる………!
「勝ったらいいな」じゃない……!
勝たなきゃダメなんだっ……!
--
この手はなんのためについている……?
リスクを恐れ、動かないなんていうのは
年金と預金が頼りの老人のすることだぜ…!
年老いた者にとってその手は
これまでの人生で築いた「何か」を守る手……
つまり放さないための手だ…………!
しかし、持たざる者、若者がそれじゃ
話にならない……………!
若者は掴みにいかなきゃ
ダメだっ……!
でなきゃ道は開けないっ……………!
--
なぜか人は一度こうと決めた戦略を貫いてしまう……………
それが今の状況に合わぬ
欠陥だらけの時代遅れ……
ポンコツだと薄々知りながら
手放すことができない…
狂騒に駆られてしまう…!
押さえがたく…………………!
--
一生迷ってろ……!
そして失い続けるんだ…
貴重な機会をっ!
--
前向きのバカならまだ可能性はあるが……
後ろ向きのバカは可能性すらゼロ…!
--
わかったんだよ…………
人間には二種類いると…
土壇場で臆して
動けなくなってしまう人間と
そこで奮い立つ者と……
投稿者 knsket : 22:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
カイジのいったことをかんがえる
スーパーペシミスティックな人がいる。
現状が理想と違う場合に、現状を悲嘆し、その現状を作り出している人間に届かぬ批判をする人間のことだ。
現状を作り出している『壁』となっている他者に対して発せられる罵詈雑言は、そのまま自分への罵詈雑言となっていると言うことになぜ気づかない。
自分の提案が通らなかったのは、「相手の受け皿がなかった」のではなく、相手の受け皿を把握することすらできなかった自分の洞察力のなさが原因だと、自戒することすらしない。
就職活動も同じこと。
無論それは「縁」であるが、「縁をつなぐ努力」すらしない。相手の求める事を、察することなく自分の武勇伝を勝手に語ろうとする。「その企業の求める事が」が「マニュアル的人間」であれば、内定はでるだろうが。そんな人間は中谷でも読んでおればよい。
結局、スーパーペシミスティックな人間は、自ら「現状」に対応する試みをする事もなく、チャンスを端から否定し、その場から去っていこうとする。
オレはチャンスを自ら閉じているんだ!
オレの限界はここ、これ止まりと
他の誰でもない、オレが、
オレ自身が見限っているんだ……!
自分を……!
その可能性を……………!
自分の可能性を狭め、挑戦する意欲を失わせているのは、
他ならぬ「自分自身」に過ぎない場合もある。
「出る杭は打たれる」などと自らを語り始める「杭」など、どこにある?
そんなのはもともと「出る杭」でもなんでもなかったのだ。
出る杭とは、打たれても打たれてもなお、出続ける杭のことを言う。
打たれた杭は土の中で、ただただ黙って復讐を誓うのだ。
一度打たれたぐらいで、「出る杭」を語るな。
這いつくばって、歯を食いしばって、再び地中から出る杭に、
愚痴など言う余力などない。
歯を食いしばっている人間が、口をひらけるものか。
投稿者 knsket : 22:19 | コメント (0) | トラックバック (0)
インターネット中傷論
ネットで中傷はいる人間は、まず絶大で不可侵なものすげえ一方的な偏見からスタートしている気がする。
お互いの前提を把握しない以上、不毛な議論になることはわかるだろうが。
ウソをウソと見抜けない...以前に、
「自分がどういう前提で議論の場にたとうとしてるのか、自分すらわかってない」状態で書き込むぐらいだったら、だんまり決め込んで態度でしめしたほうがマシかなとも思ったり。
いちいち細かい中傷のレトリックを思いつくヒマがあったら(ry
とかになるよな。
正直、チラシのウラだとか、便所の落書きだとか、わかる気がしてきた。
基本はみんな臆病なんだし、
自分の名前とか面晒してしゃべる人間は、逆に厚顔無恥なお人だし。
もうどうしようもないなあ.
投稿者 knsket : 22:18 | コメント (0) | トラックバック (0)
悪の花道を一度は踏めよ、と
2004-12-14 03:07:21
「悪の道」ってのは、ああ、あるんだな、と思う瞬間が、とにかくある大学院生活だった気がする。
悪に憧れる瞬間ってのがあるわけなのだが、
一度足を踏み入れたら最期。
悪に染まった人間は、そこから抜け出すことはできず、
一生背負い、つきあい続けることになる。
だが、それは誰しもが通る道なのだろう。
問題は、人間がどの年齢で、どの段階で、
その「悪」に染まる経験をするか、だ。
真っ白な道を歩む人間は、それを信じて歩き続けるしかない。
だが、真昼の明かりを信じ切っている人間に、
夜の漆黒の闇の趣深さなど、解る由もない。
結局、責められるべきは、白黒でも善悪でもないところにある。
己を信じ切れるかどうか。そこしかない。
自惚れでも、自己愛でもいい。
自分を信じて、思いこんで動ける人間は、本当に強い。
本当に強い思いこみは、本当に実現する。
そこに恥や恐怖や嫉妬はない。
描き続けた理想の自分像と、現状との自分との、激しい戦いでしかない。
だからこそ、「恵まれすぎている人間は不幸だ」と言わざるを得ない。足掻く前に、それが実現されているからだ。
世の中、うまくいかない事があったほうが、断然おもしろかったりする。
投稿者 knsket : 22:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
イノベーションと「無知の知」
さまざまな社長のブログに、コメントかいてる何がしかのITにとっても造詣の深い方がいろいろと議論なされているようですが、とてもまあインテリゲンチャな内容で、正直いって「自分の言いたいこと」しかいわずに、なんら読者に対してのコミュニケーションも求めてない人間たちなのだなあ、ああ。と深くため息をつかざるを得ない状況です。
ええ、僕も人の愛をしらない超オタクだった昔は、セマンティックウェブ構築だの、ユビキタスコンピューティングのインストアマーケティングの応用だの、コンテンツエンジニアリング(これは今も専門)だの、オートマトンだの、エクリチュールだのオートポイエーシスだのエスノメソドロジーだの、全然連関性のない小難しい横文字ばかりならべて、相手がわからないことにとっても優越感を感じるひん曲がった人間であったことは否定できない事実であるし、しかしながら、それがなんと虚無的なことであるかも、同様に否定できないのだ。
だからこそ、どこの何様だかわからんが、人のブログにまできて、インテリゲンチャの再来かお前さん?と思えるような、くだらない(内容は高尚であっても、その意図が全く伝わらない)文言をコメント欄にとうとうと書きまくって、鼻高々に他のユーザーを見下しかつ、ブログ主にまで馬鹿だのアホだの面と向かわずにモニターごしだけに発言する、コミュニケーション力の乏しさの僕はただただうなだれて、枕の上で袖をぬらすしかないというこの、ネットコミュニケーションのリテラシーの少なさよ。
きっと、「小難しい表現をつかって、悦に浸る人間」というのは、「孤独な人間」であることの裏返しなのだろう。ハリネズミの憂鬱という、形骸化した言葉で形容することすら忌々しいことなのだけど、あえて難しい言葉をつかってディスコミュニケーションを誘い、相手のことを小馬鹿にして、見下しているというその態度は、ネットコミュニケーションが発達してから、より一層促進されたといえるだろう。
ニュートンとヘールズが行ったような、価値のある論争であれば、いくらでもやってほしいし、そうした価値のある論争をパブリッシングするメディアとしての現場を開放する出版業の新設はとても価値のあることだろう。でも、ネット上に流れる表層的な文字列を、本・書籍というハードコピーに変換するノウハウを持っている人間は、まだ日本でも数少ない。「deep love」とかいうケータイ-女子高生という安易な本のプロモーションは、自称大成功ということで、出版→映画化までされるこのメディア業界の頓珍漢さだ。
「広まったから出版する価値がある」といういかにも20世紀的なメディアプロモーションの議論は、もう使い古されていて、いまだにその幻影に取り付かれている大手広告代理店の諸君は置いておく。というか、本質的に、そういう話をしたいわけじゃない。
閑話休題。
本題のとおりイノベーションと無知の知ということについて書きたい。
何をいいたいかといえば、「技術や学術的なインテリゲンチャが論ずることは、ほかでやってくれ」ということだ。今まで、こうしたインターネットのフィールドとは、ハイパーテキストの巨大な森ができて以来、学者や似非ネットオタク等の素敵なインテリ遊び場だったわけだ。こうしたインテリな人間様たちというのは、「知らないこと」イコール「インテリとしての死」を意味するあまり、必死になって新しいことを知ったかぶろうとする。それが本質論ではなくとも、姿勢として「強がっている」ことからはじめねば、たちまちに論破されてしまい、研究・論争を生業としている人間、もしくは趣味ないし現実逃避の手段としてこのフィールドで粋がっている人間のレゾンデートルが崩壊してしまうのである。ああ、悲しき性よ。(プロアニメオタクのインテリどもは、なぜか過去歴代の魔法少女モノの年表・製作者・監督などすべての事項が頭に入っているという。)
だが、デジタルデバイドの緩和によって、この住処はインテリゲーマー達だけのものではなくなっている。「よくわからないけどつかって楽しい」という人間も猛烈に増えているのが事実だ。そういう人間達に「お前、まだOutlook Expressなんかつかってんの?HTMLメールおくってくんじゃねーよ、バカ!」などとはとてもいうことはできない。テレビが爆発的に普及した段階で、NTSCとPALのプロトコルの違いなど、論じて悦に浸っている人間なんぞ、おらなんだ。
「わからない」とか「リテラシーが低い」ということ自体、責めるべきことではない。問題なのは、「聴く側」よりも「言う側」であることのほうも大きいのだ。
「わからない」人を見下すインテリを僕は軽蔑している。本当に「知的教養の高い人間」であれば、難解な事項や現象をほどよく噛み砕いて、誰にでも理解できるレベルにまで落とし込んで説明ができるはずだからだ。
そして、その「難解なもの」を「噛み砕いて提供する」こと自体、今後ネット人口がさらに増えて、そういう人々にサービスを提供する上での、重要なキーになるのではないか?
要は、こうしたイノベーションをいかに、わかりやすく人に説明できるか?という「ホスピタリティ」の問題だ。
どんなに、技術的に優れようと、知的レベルが高かろうと、コミュニケーションの受け手に対する説明力、察知力、ホスピタリティがなければ、すべては泡沫に消える。独りよがりにサービスしたって、一銭の得にもならない。
もちろん、イノベーションに対する好奇心・知的欲求は維持し続けておいたほうがいい。
だが、「人より知っている」ことも、結局他の人とコミュニケーションできる素材に変換できなければ、無碍に体の横っ腹に蓄積されつづける、体脂肪・内臓脂肪となんらかわりはない。
さて、結言として。面白いことに、「インテリ」という悲しき生き物たちを、メタに論じている社会学者があまり存在しないということ。これこそ、すべてのインテリゲーマーたちのレゾンデートルを破壊させる、究極的な議論であることに他ならないからだ。
何度でもいう。
「インテリ、批評家達の銅像が建った国はどこにもない」
そして、
「インターネット上でとうとうと、批評や強がりを述べるインテリ人間の銅像なんぞも、未来永劫、見ることはないのだろう。」
投稿者 knsket : 22:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
メラビアン in インターネット
2004-09-23 15:16:22
「通りすがり」さんや「unknown」さんは、
自己主張するのだが、「発言の責任の所在」を明確にしない。
>批判は、「何を言われるか?」より
>「だれに言われるか?」がおおきい。
と、ほぼ日イトイ新聞で、山田ズーニーさんは(大人の小論文教室で)述べている。
批判の内容はごもっとも!な部分もあるけど、
批判してくれる人間が、信頼にたる人間でなければ、
正直言って「批判をうける器」を用意する気にもなれない。
自分のことを棚にあげる気はさらさらないんだけど。
「この人とお付き合いすることは自分にとってプラスになる、そして、この人の批判ならば、自分のことを成長させてくれるだろう。」という確固たる信頼関係のもとに、批判コミュニケーションは価値を発揮しうる。もちろん、匿名でなくても、人間として信頼できない人間からの批判に対して、受け皿をつくることは難しい。
だからこそ、批判や注意のまえに、信頼関係をつくることが先にくる。
(でも、現在社会はなぜかこれがとっても難しい)
断じてもいい。ハンドルネームや匿名で言いたいことだけ言うのは価値はない。
そして、名前を明かして、言いたいことを言うのは、「自分という看板や信頼」をしょって立つ気概がある勇気のいる行為だ。
本来、自己表現や自己主張というのは、自分の恥部をさらすような、とても気の重い行為であった。恥をさらした先に、反省があり、コミュニケーションが成立したときに、はじめて信頼は成り立つ。
「言いたいこと」を言う権利を主張する以上、「言った内容や言い方」に対する義務を負う必要がある。権利だけ主張して、義務を野放図にするのは、インターネットにおいてあまり好ましい状況ではないかもしれない。
山田ズーニーさんは、こう締めの言葉を述べている。
>(インターネット上では)
>批判ができないのではなく、
>批判ができるだけの信頼関係がつくれない。
>だから、ネットでの批判は、
>そうとうに討ち死にの確率が高いのではないかと思う。
>それは、自分の言葉の無力、メッセージの討ち死にというよりも、
>自分の誠意に反して、ただ相手から嫌われ、うとましがられ、
>ただ相手への影響力や発言力を失っていくだけの、
>ハンドルネームの死ではないだろうか?
でも、ネット上で生きながら、自分の名前と顔をさらして、
堂々と物事を書き連ねていく人物も出始めている。
これができるのとできないのとじゃ、雲泥の差だ。
「匿名だから言いたいことかけるんじゃん」ってのは、
コミュニケーションにおいて、激しく甘えているにすぎない。
投稿者 knsket : 22:05 | コメント (0) | トラックバック (0)